池田高校の日本一に湧いた夏|【三好人】やまびこ打線“恐怖の九番打者”と呼ばれた男『山口博史』
2021.09.21
どれだけ時間が経っても、色褪せないシーンがある。1982年夏の甲子園はもう40年も前のこと。だが、当時から甲子園のアイドルだった荒木大輔が完膚なきまでに叩きのめされた試合――早稲田実業と池田高校の一戦は高校野球ファンの記憶にしっかりと刻まれている。
荒木大輔が一年生の夏、16歳でさっそうと登場し、5回も甲子園に出場した彼の集大成となるはずの夏。日本中を驚かせたのは池田高校の爆発的な打線だった。初回、江上光治のホームランなどで2点を奪ったあとも、猛打が続く。6回が終わった時点で7対2。甲子園で通算12勝を挙げた好投手は、7回途中でがっくりとうなだれたままでマウンドから降りた。終わってみれば、14対2で池田の圧勝だった。
池田高校「やまびこ打線」の中軸には、のちにプロ野球で活躍する畠山準(元南海ホークスなど)、水野雄仁(元読売ジャイアンツ)がいた。しかし、他校を震え上がらせたのは打順に関係なく強打が続いたこと。その代表が、「恐怖の九番打者」と呼ばれた山口博史さんだった。
「甲子園の初戦はノーヒットに終わったあと、2回戦(日大二)、3回戦(都城)と続けてホームランを打って話題にしてもらいました」
池田打線は好球を見逃すことなく、初球からフルスイング! ヒットがヒットを呼び、あっという間に大量得点を奪うのが、あの夏の勝利の方程式だった。荒木大輔はのちに池田戦の大敗を振り返って「高校時代のすべてを池田打線に破壊された」と語っている。
現在、東京に住み、IT系企業の役員を勤める池田高校野球部の夏の甲子園初優勝メンバー、山口博史さんは次のように語った。
「当時、僕たちにとって、荒木大輔というピッチャーの存在は大きかった。甲子園に行きたいよりも、荒木大輔と対戦したいという思いが強くて、組み合わせ抽選の前、キャプテンに『早実との試合を引いてくれ!』と頼んだくらい」
早実が東の横綱、西の横綱として注目されていたのが剛腕エース・畠山準を擁する、あの蔦監督が率いる池田高校。注目の対戦は準々決勝で実現した。
両エースによる投手戦の予想は初回に覆され、一方的な試合展開になった。
「バックネット裏にたくさんの『大輔ギャル』が並んでいて、試合に勝ったあと『山口のバカ』とかいろいろなことを言われました(笑)」
準決勝で東洋大姫路を下し、決勝戦も名門・広島商業に12対2で圧勝し、初めての日本一に登りつめた。
池田高校を日本一に導いた名監督『蔦文也』監督
「決勝戦前日の夜、蔦先生はお酒を飲んでいたんでしょうね。少しおどけた感じで『みなさん、わたしを日本一の監督にしてください~』と言われました。普段、そんなことは絶対になかったので、ものすごく印象に残っています」
初めて日本一を手にしたとき、蔦監督は58歳だった。それまで、彼の母校である徳島商業に何度も甲子園行きを阻まれ、甲子園に出ても2度、決勝で涙を飲んだ。
中学時代から大物と騒がれていた畠山準が入学して、「甲子園に5回行ける」と蔦監督は豪語したが、その夏まで甲子園にたどり着くことができなかった。
「中学時代から、畠山準はエースピッチャーとして誰もが知る存在でした。周囲からの甲子園出場の期待を感じていましたが、それに応えることができなかった。二年生の夏、準決勝の徳島商業戦でショートを守っていた僕が同点エラー、逆転のエラーをしてしまいました……」
最後の夏の徳島大会に優勝して甲子園出場を決めたとき、うれしさよりも安堵が強かった。ずっと重くのしかかっていたミッションを果たしたことで、甲子園で大暴れできたのだ。
「正直、甲子園で勝ち上がるよりも、徳島で勝つことのほうが大変でした。『なんとか甲子園に行けた』という気持ちでした。蔦先生の指示でいつも甲子園を想定した練習をしていたので、初めてでも戸惑うことはありませんでしたね」
強気な姿勢を貫き「攻めだるま」の愛称で高校野球ファンに愛された蔦監督だが、選手にとってはとてつもなく恐ろしい存在だった。
山口さんが振り返る。
「学校で女子生徒にあいさつされると蔦先生は笑顔で応えていましたが、僕たちにはそんな表情を見せたことがない。とにかく怖い人で、話しかけることなど一度もできませんでした。言われたことを『はい』と聞くだけ」
蔦監督に反抗して九番に降格……甲子園でサインを拒んだことも
だが、それほど恐ろしい監督に、山口さんは歯向かったことがある。いや、指示を聞いたうえで、自分流を貫いた。
「もともと僕は三番を打っていたんですが、蔦先生の逆鱗に触れて九番に。『バットを寝かせて打て』と言われたのに、先生が見ていないと思っていつも通りに打ったんです。気づかれてないと思ったんですが……」
甲子園でも、サインを拒んだことがある。
「早実戦の第1打席。チャンスで打席が回ってきて、スクイズのサインが出たんです。でも、荒木大輔からヒットを打ちたかったから、サインがわからないフリをしてタイムを取った。そうすれば違う指示が出るかと思ったんですが、そのままで。次のバッターだった窪靖に『おまえ、ようそんなことができるな。大変なことになるぞ』と呆れられました(笑)」
監督が「白」と言えば、黒いカラスも「白」になる、そんな時代に山口さんが見せたささやかな反抗だった。監督の命令や指示は絶対だったが、蔦監督はどこかで選手たちの反骨心を試していたのかもしれない。
「6年ほど前に同期で蔦先生のお墓参りに行って、お宅にお邪魔したときに、畠山準が先頭で僕は後ろのほうにいたんです。そうしたら奥様に『山口は来とるの?』と言ってもらって、ものすごくうれしかった」
もしかしたら、蔦先生は自分のことを気にかけてくれていたのかもしれない――山口さんはそう思ったそうだ。
人口2万人ほどのマチ、池田町(現・三好市)は、初めての日本一に沸いた。
「甲子園で初優勝し、地元に戻ったとき、ものすごい数の人が迎えてくれました。国道の脇で、みなさんが旗を振ってね。池田町に着いたら、町の全員が集まってきたんじゃないかという大騒ぎでした。卒業したときにファンレターをまとめて渡されたんですが、3000通か4000通はあったかな」
山口さんが高校3年間を過ごした池田町。入学試験の日に校舎から外を見たら、四方が山ばかりで驚いたこと。ジャスコの最上階にあった喫茶店で、部員6人が集まってチョコレートパフェを食べたこと。疲れを癒すために入った池田温泉で、当時のヒット曲『ルビーの指環』が流れていたこと。
いろいろなシーンが甦る。
「池田町には高校3年間しか住んでいませんでしたが、いまでも『帰る』という感覚ですね。母親が徳島市内に住んでいるので、帰省したときには何か理由をつくって池田町に帰るようにしています。
下宿先の近所でお世話になったレストハウス・ウエノ。当時野球部員には朝食を300円でご飯食べ放題のサポートをしてくれいていました。ウエノさんは自社で直営牧場があり、そこのソーセージでたらふくご飯をかき込んでいたのがいい思い出です。あと、野球部の走り込みでよく山を登らされていましたが、『西山地区』という池田高校の正面に見える山の上にある集落なんですが、次に池田に戻ったら懐かしむ意味で行ってみたいですね。あと当然、思い出深き市民球場など、思い出がたくさんあります。」
甲子園優勝で人生が変わった
高校三年生の夏に甲子園で優勝し、全日本メンバーにも選ばれた。苦しかった高校野球を最高の形で終わることができた。
「とにかく、練習が厳しくて、監督が怖くて、毎日、野球をやめたいと思っていました。もう少し違う取り組み方をしていれば、もっと野球がうまくなったのかもと反省しています」
高校卒業後に九州産業大学に進み、就職したのち野球から離れていたが、2007年からリトルリーグ(少年硬式野球)の指導に携わるようになった。あの荒木が在籍した調布リトル・シニアだ。
「週末、ボランティアで子どもたちに野球を教えるようになって20年あまり。週末は、朝9時から夕方6時までグラウンドにいる生活です。教えた子たちがたくさん、甲子園に出ています」
自分が甲子園の土を踏んでから40年近くが経ち、指導する子どもたちにかつての恩師と同じことを言っている自分に驚く。
「高校卒業後に母校に行って蔦先生から食事に誘われても、断っていました。恐れ多いというか、何というか……。でも、選手たちに『全国で勝つための野球をやろう』とか、『自分で考えて野球をやれよ』と言っているときに、『あれっ、これは蔦先生がいつも僕たちに言っていたことじゃないか』と」
もしかしたら、ノックの打ち方も似ているんじゃないかとも思う。
「池田の練習は、最後にノックで締めるんです。いつも、ショートにノックを打つのは蔦先生と決まっていました。僕は、蔦先生のノックで鍛えてもらいましたから」
記憶の中の蔦監督と同じ姿勢で選手たちのバッティング練習を見ていることに最近、気づいた。山口さんは来年、日本一になったときの恩師と同じ58歳になる。
「最後まで、蔦先生と気軽に言葉を交わすことはありませんでしたが、自分の中に蔦先生の野球、『蔦イズム』がしっかりと残っているのだと思います」
取材・文:元永知宏
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