見どころ|マチとジオ ❶(池田町市街地周辺)


ジオサイト 三好市の大地の成り立ちを感じられる場所

池田断層 断層崖サイト

Scene IV-1

ウエノヶ丘とマチ・サラダの間には高さ20~30mの崖があり、中央構造線の活動(地震)が何度も起こりできた断層崖です。これより南側の大地は結晶片岩、北側の大地は砂岩や泥岩からなります。この崖の上には学校が立ち並び、断層崖をまたいで登下校する様子が見られます。

新猪鼻トンネルの中央構造線サイト

Scene IV-3

池田町箸蔵の新猪鼻トンネルの法面に大きな4つの窓があります。ここは、中央構造線池田断層の断層露頭が見られる場所で、一番南側の窓に断層面を観察することができ、北へ向かうに連れて断層によって破砕された度合いが弱くなっている様子を見ることができます。

箸蔵断層サイト

Scene IV-5

箸蔵小学校の北側には、一段高い崖があります。これは、中央構造線箸蔵断層の活動(地震)によってできた崖で北側の方がより高くなっています。箸蔵地区には、池田断層と箸蔵断層が平行に貫いています。

砂岩泥岩互層と土柱層の不整合面

Scene V-1

箸蔵にある近隣公園には、砂岩と泥岩の互層の上に、吉野川の堆積物がたまっているのを観察することができます。

シンヤマの地すべり塊サイト

Scene V-2

中央構造線の北側は砂岩や泥岩からできており、南側は地下で圧力を受けてできた結晶片岩からできています。シンヤマは中央構造線の南側にありますが、砂岩や泥岩からできた山で、昔、北側の讃岐山脈の一部が地すべりを起こし、吉野川を超えて南側やってきました。その痕跡を八幡神社の参道で観ることができます。

西山・洞草の地すべり地サイト
馬場の地すべり地サイト

Scene V-3 Scene V-4

夜、池田市街地から讃岐山脈を望むとひときわ大きく輝く光が何点も見られます。これは星の光ではなく、西山、洞草、馬場地区などの人家の明かりです。これらの地区では、地すべりによって作られた緩やかな傾斜面に集落が点在しています。

入体の地すべり地サイト

Scene V-5

鮎苦谷川の西側にある入体地区は緩やかな傾斜面に築かれた集落です。この緩やかな地は昔、地すべりが起こって作られた土地です。入体地区周辺の地すべり地形を観察できるポイントとして、鮎苦谷川対岸の落地区にある展望所があります。

井ノ久保の地すべり地サイト

Scene V-6

井ノ久保地区には、複数のブロックからなる約800mの大地すべり地があります。この地すべりが起こったことで、南側にある馬路川が曲げられ、川幅を狭めています。もう少し地すべりが南側まですべっていたら、馬路川をふさいでしまっていたかもしれませんね。

吉野川の流路変更サイト

Scene V-8

吉野川は水際公園から東へ流れが変わっています。これは中央構造線の活動によって、讃岐山脈が約300万年前から隆起しはじめたためです。それ以前の吉野川は、讃岐山脈がなかったためまっすぐ北に(現在の香川県側へ)流れていました。

イケミナミの扇状地サイト

Scene V-13

池田市街地の西南側のイケミナミには、シンヤマと四国山地から平野に流れてきた土砂がたまり、扇状地と呼ばれる地形ができています。地図でこの地形を見てみると、まるで扇子を広げたような形をしていることがわかります。

マチとシマ・サラダの河成段丘

Scene V-14

シマ地区マチ・サラダ地区を分ける高さ20~30mほどの段差があります。これは、吉野川の侵食と土地の隆起によってできた段々の丘(河成段丘)です。池田市街地の中でシマ地区は一番低い面であるため、度重なる洪水で浸水する地域でした。

中西の河成段丘サイト

Scene V-15

吉野川中流域で平野部が作られ始める箇所の一つがこの中西地区です。ここには三好市の中でももっとも多く採掘されていた鉱山(三縄鉱山)があり、戦後まで採掘されていました。三縄鉱山から採掘された鉱石は、鉄道が開通する前は、吉野川の舟により運搬されました。鉄道開通後、戦前までは九州佐賀関に、戦後は愛媛県新居浜に汽車で運ばれていました。

白地の河成段丘サイト

Scene V-16

白地地区には吉野川と土地の隆起によって作り出された段々の丘(河成段丘)があります。その上は見晴らしがよく、西側は地すべりによって作られた崩壊地があります。この立地を活かし、白地大西城が築かれました。戦国時代の末に土佐の長宗我部氏に攻められ、のちに長宗我部氏の四国制覇の拠点となりました。

池田のフルイケサイト

Scene V-18

江戸時代までは低湿地であったこの地は、阿波藩の国司であった山田古嗣が干害に苦しむ農民のために整備したと言われています。この池の水底から50m付近のところにメタセコイアの花粉化石が堆積していることがわかりました。このことから、この地は約85万年前に緩やかな湖沼があったと考えられています。

白地湧水サイト

Scene V-19

中央構造線の周辺には、水を通しにくい地層が作られることがあり、この層の境目付近には水が集まる部分(湧水地)ができます。白地のへそっこ大橋西側のたもとには、このような作用で湧き出している水があり、地元の温泉の水として活用されています。

カルチュラルサイト 三好市の大地と係わりのある歴史文化が観られる場所

池田のまちなみサイト

Scene VI-C-4

江戸時代末期(1800年初期)に中和商店から始まった池田の刻みたばこ業は江戸〜明治期にもっとも繁栄しました。専売法が施行されたことにより、多額の補償金を受け取ることができたことを機に、醸造業や酒造業などに転業し、現在まで至ります。

諏訪神社・千五百河原サイト

Scene VI-C-5

ウエノヶ丘の一番東の端にある神社で、池田大西城を治めた小笠原氏が諏訪大社から分社して建てたいわれがあります。諏訪神社の東側にある河原は、千五百河原と呼ばれており、昔、帆かけ舟の発着として栄えた場所でした。

池田大西城跡サイト

Scene VI-C-8

ウエノヶ丘にあり、小笠原長清が築城したと言われています。阿波九城時代(1600年頃)の「落とし込み」「野面積み」「算木積み」の石垣が城址の名残として見られます。石垣の材料には、結晶片岩と砂岩の両方が使われており、ちょうど中央構造線で作られた断層崖上に城が建っていることを感じ取れます。

白地城跡サイト

Scene VI-C-9

白地地区には吉野川と土地の隆起によって作り出された段々の丘(河成段丘)があります。その上は見晴らしがよく、西側は地すべりによって作られた崩壊地があります。この立地を活かし、白地大西城が築かれました。戦国時代の末に土佐の長宗我部氏に攻められ、のちに長宗我部氏の四国制覇の拠点となりました。

箸蔵寺サイト

Scene VI-C-11

箸蔵寺は空海によって開かれた真言宗のお寺です。明治時代に行われた「廃仏棄釈」によって多くの寺と神社は分離されましたが、この箸蔵寺はそれを免れ、現在でも神仏習合の寺となっています。敷地内には、昭和南海地震の揺れにより傾いた鳥居や、吉野川の水運文化を支えた川の灯台「高灯篭」などがあります。

池田ダムサイト

Scene VI-C-30

讃岐山脈の山麓の水不足と吉野川中流・下流域の洪水対策の一つとして池田にダムが建設されました。この地にダムが築かれた理由は、①川底が砂岩の岩盤からなること②下流では水が地下に一部浸透し川の水の量が減ってしまうことなどの理由があったからです。

三縄鉱山跡サイト

Scene VI-C-31

吉野川中流域で平野部が作られ始める箇所の一つがこの中西地区です。ここには三好市の中でももっとも多く採掘されていた鉱山(三縄鉱山)があり、戦後まで採掘されていました。三縄鉱山から採掘された鉱石は、鉄道が開通する前は、吉野川の舟により運搬されました。鉄道開通後、戦前までは九州佐賀関に、戦後は愛媛県新居浜に汽車で運ばれていました。

各サイトの見方

ジオサイト

Scene I
四国山地(北側)の素ができるまで(海底でたまり、地下で圧力を受ける時代)

Scene II
地下から地表に現れる時代

Scene III
讃岐山脈の素ができる時代(海盆の時代)

Scene IV
讃岐山脈が盛り上がり始めた時代

Scene V
吉野川沿いに平野が作られる時代

エコサイト

Scene VI-E
大地と共存しながら生きぬく時代(生態系)

カルチュラルサイト

Scene VI-C
大地と共存しながら生きぬく時代(歴史文化)